おいわさんだよりから

おいわさんだより

 平成三十一年一月

 

      ご挨拶
大岩山明王寺は真言宗の寺院です。当山の参道の入り口には、赤い結界門が立っています。それを神社の鳥居と勘違いし当山を神社だと思っている人もいます。

 真言宗では「加持祈祷」を行います。祈祷のことを「修法」とも申します。真言宗の宗祖弘法大師空海は盛んに「修法」をされました。日照りが続くと雨乞いの修法。疫病が流行ると病魔退散の修法。天皇がご病気になられると当病平癒の修法。そうした修法がことごとく効果を現したと伝えられています。

 弘法大師空海は「加持祈祷」の不思議な力をこう説明されています。

 「仏様の力を月にたとえ、祈る人の心を水にたとえると、月がその姿を水面に映すのを『加』といい、水面が月光を感ずることを『持』という。」

   祈る人の心が鏡のような静かな水面ならば、満月はそのまま美しい姿を水面に映します。し かし祈る人の心が荒海のようならば、月の光は 水面まで届いても、水面は満月を映すことは出来ません。

 このようにお加持を受けて、そのご利益をいただく心構えが述べられています。そしてお加持とは、仏様と願主が以心伝心することです。 仏の力が人に加わり、人を守護することを意味します。それは、人の祈りの心に応ずる、仏の働きです。

それによって願主の願いが叶えられるのです。  そのためにはまず、仏様が私たちを見守っていることを信ずることが大切です。

 「仏法遥かに非ず,心中にして即ち近し」と弘法大師は書いておられます。

 『仏法は山のかなたにあるのではない。以外にも近くにある。それも自分自身の心の中にあ る。』と言う意味です。

 仏法とは、仏様の教えです。仏の教えが自分 の心の中にあるとは、どう言う意味でしょうか。

 私たちの心の奥底には「無意識」と言われる 領域があります。人との対話(カウンセリング等)や、瞑想によって私たちは「無意識」下にあるアイデアやひらめきが意識に登って来ることがあります。

 そしてそれが時として、仏様のようなことをいうのです。

   無意識には欲がありません。欲がなければ不満もありません。腹も立たないし、嫉妬も起こりません。無意識には私たちが仏になる種を宿していると考えられるのです。

 これを仏教では『仏性』と名付け、すべての人は仏になる事が出来ると説きます。   ホリスティック医学というものがございます。ホリスティックとは「全体」とか「バランス」などの意味で、私たちは、『身体』と『心』と『命』更には『霊性』から成り立っていると考えます。

 そして私たちが持っている自然治癒力を癒しの中心におき治療しようという医学です。そこでは患者が自ら癒し、治療者は援助するという考え方です。

 真言宗の「加持祈祷」もこの考え方に似ています。私達の心の中に住んでいる仏様に働きかける修法が「加持祈祷」です。私達の心の中に住んでいる仏様とは、自然治癒力を含めた、そしてもっと広い意味での人智を超えた大きな力のことを指します。  その力が発揮されると不可能と思われていた願いが叶ったり、病気が癒されたりするのです。例えば、火事場の馬鹿力のような。

 真言宗の寺院では、護摩供養をしたり、加持祈祷をおこない皆様方の幸せを祈ります。その時には必ず「真言」を唱えます。真言とは「真理の言葉」です。わかりやすく言えば呪文です。

 真言を唱えれば、その力によって色々な奇跡が起こるのだと言われています。







おいわさんだより

     平成三十年一月


ご挨拶

 科学技術、テクノロジーの発達は目を見張るばかりで、コンピューター一つとってみても、筆者には、ほんの少し使いこなすのがやっとと言う状態です。二年以上前に買ったタブレットは、ほとんど使うことなく、解約してしまいました。
 二一世紀、二〇一七年ももう少しで終わろうとしておりますが、世の中にはまだまだ不思議なことがたくさんあります。例えば、私たちの体の中には、自らが自身を癒す力、自然治癒力が備わっています。
 例えば、癌という病気がございます。日本では二人に一人が癌になり、三人に一人が癌で亡くなると言われております。毎年三十五万人の方がお亡くなりになられるそうです。

 私は,今から三十年前に父である先代住職と、妹を癌で亡くしました。それから三十年がたち、科学技術は驚くほど発達いたしましたが、こと癌治療に関しては変わっていないなというのが感想です。
当時も今も、がん治療には、手術、抗がん剤、放射線治療が主流です。そして、今も多くの方がなくなられています。
 一方私たちの身体には、自然治癒力が備わっています。自然治癒力とは、いったい何なのでしょうか。それは、生き物が持っている、秩序を整える力だと言えます。生体に異常が起きれば、それを正常な形に戻そうとする力だと言っていいでしょう。
 人間の命を「自ら秩序を作り出す能力」と定義した人がいます。自ら秩序を作り出す能力が、生命なら、自然治癒力は生命そのものです。生命の持っている最大の特質が自然治癒力であり、自然治癒力を持っているものが生命、ということになります。

 帯津三敬病院名誉院長帯津良一医師は、癌患者が、病を克服して社会復帰していった人々のことを書かれていますが、それには、自然治癒力が大きくかかわっていると述べられています。 そして、自然治癒力を高めるためには、三つの要素があると言われています。一つは、心を安定させることです。二つ目は食べ物、食べ方です。三つ目は呼吸です。

 食べ物については、身体が欲するものを、おいしく感謝していただくことが大切です。なるべく、地産地消で旬のものをいただきましょう。  そして、添加物の多いものや、加工食品は進められないと言われています。

 呼吸については、私たちは、緊張したり、イライラしたりすると、浅く短くなります。これは、身体の乱れにほかなりません。
 そして深呼吸というのがあります。これは、西洋の呼吸法で、吸う息に意識を向けます。息を吸い込むと自律神経のうちの、交感神経が優位に働きます。これは緊張状態をうみだします。
 この逆に吐く息を長く、ゆっくりと吐くことを意識してみます。一日数回で構いません。これは自律神経の副交感神経が優位に働きます。副交感神経は、身体を休息へと向かわせリラッ クスした状態へと向かわせます。

 最後に心についてです。
 私たちは、できるならゆったりとおおらかな気持ちで日々過ごしたいものです。しかし、昨今は腹立たしいことも多々あります。  「一怒一老」という言葉がございます。これは、一回怒ると一歳齢をとるという意味で怒れば怒るほど身体はダメージを受け自然治癒力が弱まり、若々しくいられず病気になるという意味です。
 出来るだけ怒りを持たないよう日々過ごしたいものです。どうすれば良いのでしょうか。まず怒ってもなにも好転しないと悟ることですね。変えられるのは未来と自分だけです。変えられないものを変えようとすることは愚かなことです。

 そして、生かされていることに感謝しながら、日々を有意義に過ごしたいものです。そうすればきっと自然治癒力も高まり、免疫力もアップして清々しく過ごせるのではないでしょうか。今回は、自然治癒力と心と身体の密接な関係について書いてみました。







おいわさんだより

     平成二十九年一月

ご挨拶
月日の流れるのは早いもので,私も今年三月満六十歳になりました。今年は丙申(ひのえさる)年で、私が  生まれた昭和三十一年と同じ干支に還るので還暦と申します 。そして当大岩山明王寺住職に就任してちょうど三十年が過ぎました。
 私の六十年の人生の中で半分は当山の住職を務めているわけですが、これも皆様方のおかげであると感謝しております。

 さらに、いろいろな人との出会いや、心理学やホリスティック医学などの学びの中から多くのことを教えられました。そして、これはいつまで私が生きられるか分かりませんが続けてゆきたいと思っております。
 私自身、わからないことや、悩みを多々抱えながら日々を送っているわけですが、それは、みな同じなのではないでしょうか。しかし、色々な学びの中から心にも、身体に備わっているのと同じように『自然治癒力』があると知りまし た。このことを教えてくれたのは、森田療法からで、森田正馬博士は、人間には誰しも『生の欲望』が存在すると言います。そしてそれは、次のような形で出てくると述べています。


1 病気になりたくない。死にたくない。長生きしたい。
2 よりよく生きたい。人に軽蔑されたくない。人に褒められたい。人に認められたい。
3 もっと知りたい。勉強したい。
4 モット偉くなりたい。幸福になりたい。
5 もっと向上、発展したい。

 そしてこれらは、それぞれ異なった背景を持つ欲望だと言います。?の『病気になりたくない。死にたくない。長生きしたい。』などとい った欲望は、人間の本能から生じた欲望です。つまり誰もが持っている『選択理論』で言うところの生存の欲求です。
 しかし?以下の欲望は幼児期からの親や取り  まく環境の中での養育態度や教育によって二次的に生じた欲望です。ですから、一人一人その度合いには違いがあります。その多様性を認めながら生きてゆくことが大切です。

 そして、『生の欲望』が適度に満たされないとパーソナリティが歪むのだといわれています。

 適当な時期に、適当な程度『生の欲望』が満たされないと神経症的な固着が起こると言われています。欲望自体が問題なのではありません。欲望は、自然に適時に適度に満たすと、健全なパーソナリティが形成されると言われています。
    しかし、仏教では、『煩悩イコール欲望』であり『なんとしても欲望は否定すべき』と教えてきましたが、私は、疑問を呈します。
 私は、色々な学びの中から、適正な欲求は満たされなければならないと考えます。
 
    そして森田療法では、『あるがままに生きる』ことを提唱しています。『あるがままに生きる』とは悩みや不安にとらわれている自分を、ありのままに受け入れることです。そして『自然体』で生きてゆくことです。 私自身この三〇年を振り返ってみて、仏教や宗教を取り巻く環境の変化にどう対応して来たのか、これで良かったのかはなはだ疑問です。
そして、『あるがままに生きる』とはどういうことなのか考え込んでしまいます。

 しかし、過去と他人は変えられません。変えられるのは、未来と自分自身だけです。ですから、私は、過去の三〇年を振り返ることがあっても、ことさら後悔することなく、限りある命を大切にしながら来年も学び続けてゆきたいとおもいます。なぜ私はさらに学び続けたいと思うのでしょうか。
 私は、人格や性格は変えられるし改善できる ものだと思います。そして改善することにより『生の欲望』が満たされより幸せな、楽しい人生が送れると思うからです。







おいわさんだより

平成二十八年一月

     
ご挨拶
  真言宗の寺院では護摩を焚くことがあります。当大岩山では、毎月二十八日に護摩を焚いております。  護摩というのは、サンスクリットの「ホーマ」が語源で、炉の中に供物を投げ入れ、火焔となって天界へ昇らせ、神々のところへとどけます。神々は、それに答えて、魔を除き、福を与えてくれるという、古代インドの信仰が佛教の中に取り入れられたものといわれています。  日本に最初に護摩を伝えたのは、弘法大師空海だといわれています。
  日本には色々な佛教が伝わっています。心を無にすることを説く禅。ひたすら念仏するもの。それに対して真言宗では、加持、祈祷を特徴としています。  「加持」の「加」とは仏様の力が我々に及ぶことをいい、「持」とは我々がその力をこの身にうけ保つことを言います。そしてその為にささげられる祈りが「祈祷」です。  私たちには、色々な欲求や願いがあります。真言宗では欲求や願いを持つことを否定しません。ただし、健全な欲求と、不健全な欲求があることは事実です。そして、不健全な欲求を持つことは否定します。それをかなえることで不幸な方ができてしまいますから。
 人は、日々の暮らしの中で色々な願いを抱きます。その願いをかなえるために努力します。努力して、願いがかなえられる間は,人の力を信じ、人の力で解決できるものだと思います。

 しかし、努力したにもかかわらず、願いがかなえられないことも多々あります。そんな時、私たちを超えた大きな力を信じ、祈ることによって色々なことを乗り越えてきたのではないでしょうか。それが信仰です。
 私たちは、人の力で願いをかなえられるときは、努力して願いをかなえます。しかし私たちは、人の力ではどうにもならない問題が、世の中には山積していることをよく知っています。自然災害、交通事故、病気、痴呆、等々上げればきりがありません。  そんな問題を解決しようと行われるのがお護摩です。

 そして私が護摩を焚くとき、その炎にご本尊不動明王の力強いエネルギーを感じます。そのエネルギーが皆様方の願いをかなえてくれるような気がします。しかし祈るだけでは願いはかなわないかもしれません。祈りと、目的達成への努力が必要なことはいうまでもありません。
 私が当山で毎月二十八日お護摩を焚くようになって三十年が過ぎようとしています。その間多くの方々の願いをご本尊お不動様に届けてまいりました。私自身の願いも同じです。どのくらいお役に立てたかは疑問も残りますが、一生懸命勤めてきたことだけは確かです。
 その間に色々なことがありましたが、今日までやってこれたのも、お不動様と、皆様方の御外護の賜物だと感謝いたしております。  佛教という営みは私たちに色々な知恵を授けてくれます。そして謙虚になれます。
   たとえば、佛教ではいつくしみの心を持ち、育てることが説かれています。いつくしみとは、困った人や、苦しんでいる人がいたら助けてあげようと思い、行動することです。  そして、いつくしみとは生命の尊重です。人としてこの世に生まれてきたことは、大変ありがたいことです。そして人として生まれてきた以上、この命をもっとも有効に使わなければなりません。命を有効に使うとは、どういうことでしょうか。

 オーストリアの精神科医ビクトール.フランクルの言葉に「どんな時にも人生には意味がある。自分を必要とする"何か"があり、自分を必要とする"誰か"が必ずいて、自分に発見され実現されるのを待っている。そして自分にも"何か"や"誰か"のために出来ることがあるはずだ」といっています。
 これは、生きている全ての人へのメッセージです。老若男女、寝たきりになったとしても、身体が不自由でも"何か"や"誰か"のために出来ることがあるはずだという意味です。  そしてそれを発見し、実現してゆくことが命を有効に使うことです。それは大それたことではありません。ちょっとした事でもいいのです。そのためには、全ての命を大切にしなければなりません。

 佛教の十善戒の一番最初に不殺生戒があります。これは、すべての命を大切にしようということです。  命を大切にしようというのは、人間生活の基本です。しかし今世間では人の命が脅かされているニュースが報道されています。イスラム国の問題などもあります。安全保障関連法案の問題もあります。
 お不動様とは、読んで字のごとく不動、動かないしっかりした信念を持った仏様という意味でもあります。そして私たちも自分自身の中にも、不動心を育ててゆきたいものです。  不動護摩に色々な願いを託してみてください。きっと願いは叶うでしょう。







おいわさんだより

     平成二十七年一月


ご挨拶
 私たちは皆、年をとります。年を取ると個人差はありますが身体に色々な変化が現れます。私自身も目は老眼になり、体力や記憶力が衰えてきました。
 先日もある書籍を買い求めてまいりましたら、同じ書物が自宅の書棚に並んでいたということがありました。年は取りたくないものですね。しかし必ず老いてゆきます。
 老化するとはどう言うことでしょうか。老化の原理をわかりやすく示してくれるのは鉄です。
 鉄は非常に丈夫なものですが、外に放置しておくとサビてきます。腐食は進行し、最終的にはボロボロになってしまいます。サビを作る原因は酸素です。鉄が酸素と結び付きサビ(酸化鉄)が出来てしまいます。
 人間の体内でもこれとよく似た現象が起きています。私たちは呼吸によって酸素を体内に取り入れています。そして細胞の中でエネルギーを作るのに使われます。しかし一部の酸素は活性酸素に変わり体内の色々な所に悪さをします。細胞膜が酸化作用で硬くなったり、タンパク質やDNAを変化させます。
 細胞膜やDNAが傷つけられてゆくことによって老化が進行するのだと考えられています。
 しかし若い時には、活性酸素によって酸化された老廃物は体内にとどまる事無く体外へ排泄されますが、年をとると体内にとどまってしまいます。
 血流障害によって皮膚にとどまってしまうと老人性色素斑、いわゆるシミになります。脳の血管にとどまると脳血栓やアルツハイマー病を引き起こします。
 これは、血液の流れの滞留によって起こると考えられています。ですから血行を良くする様に心がければ、老化の進み具合は遅くなるそうです。ですから顔色のいい人たちは老化が遅いと考えられます。
 私たちはいつまでも若々しく長生きしたいと願っております。どうすれば若々しくいられるのでしょうか。
 長寿とされる方々に対する調査や研究が行われています。長寿の方々の習慣や趣味や生活を調べることで、長寿の秘訣を探ろうとしているのです。長寿といってもただ長生きしているだけでは満足できません。出来れば健康で長生きしたいものです。
 その結果、最もわかりやすい長寿の秘訣は『はたらく』ことなのだと分かりました。『はたらく』とは会社に勤めるとか、労働すると言う事だけではあ りません。ここで言う『はたらく』とは誰かの為に活動することを意味します。それは家族のため、子供のため、友人のため、地域のため等々なにかをすることです。それは自分のためかもしれませんね。
 さらに自分は誰かの役に立っているんだと思うことだけでも長寿につながることがわかってまいりました。私は、誰かの役に立っているという思いが生きがいにつながります。誰かに必要とされ、その人のために自分には出来ることがあり、やるべきことがある。そういう思いが元気で長生きの秘訣です。
 そしてあなたを必要とする人が必ずいます。それを実感できれば私たちは年老いても生き生きとしてくるという調査結果です。
ですから老人をいたわるとか、大切にするというのは老人に適度なやりがいを与えることなのです。そしてその仕事の達成感が、体にも心にもいい刺激を与え長寿を保つのだと思います。
そしてこの達成感が、意欲を生み出します。幾つになっても夢や目標を持って意欲的に生きることが長寿の秘訣のようです。
 さらに、長命の人の性格を調べてみると、他人の視線や評価を必要以上に気にすることなく、自分の思うままに生きている人が多いという調査結果もあります。
 他人を気にしながら生きるのは、誰にとってもストレスです。ストレスを貯めることは、寿命を縮めたり、認知症を誘発することにつながります。会社や組織の中では、規則や人間関係の縛りがあります。しかしそこから解放されたなら少しは気ままに、自分の思うように生きていっていいのではないでしょうか。
 生涯現役という言葉がありますが、出せる力を出し惜しみしないで、自分や他人のために役立ててゆく。ただし無理をしないで程ほどにということでしょうか。少しは気ままに、それが体だけではなく心も生涯現役で長寿を生きる秘訣のようです。
 そして私たちが大切にしなければならないのはバランスをとるということです。仏教には『中道』という教えがあります。極端に走らずバランスのとれた人間としての正しく歩むべき道を歩めという教えです。
 バランス感覚を大切にしながら、いつまでも若々しく、楽しみながら日々営んでゆきたいものです。